2005.03.01
_ [マンガ][感想]西島大介/世界の終わりの魔法使い
本: 世界の終わりの魔法使い九龍COMICS干上がった湖の真ん中には、真っ黒く、禍々しげな城があった。世界を滅ぼしかけた最凶の魔法使いが囚われているのだという。囚われてなお衰えない魔法使いの力は、湖を森に変え、奇妙で凶暴な生き物を跳梁させた。湖のほとりには、村があった。1000年の長きに渡って牢獄を監視してきた村の者は、魔法使いの影響を受けて皆魔法に親しみ、箒に乗って空を自由に飛びまわるようになっていた。そんな中、村には一人だけ、魔法を使えない少年がいた。彼は、魔法を嫌い、箒やサーフボードに手製のタービンエンジンを積んで、魔法に依らず空を往くことを欲した。ある日、試運転の最中に誤って城に衝突し、森に落ちてトロルに襲われた少年は、顔の半分を包帯で覆い、黒いローブに三角帽子、なんだかあからさまな女の子の助けで窮地を脱する。何度か読んでも、どうもうまく自分の中に落ちない。西島大介の絵は相変わらず素晴らしい。爆発も含めた煙の曳き方がらしくて特に。でも、画面の情報量が少なくて読みづらいところも何箇所かあって。特に、真っ白な空の描き方が気になる。この白さも多分意図した作画で、うまく後半の一ネタに関わってくるのがままならないのだけど、画面の情報量が少ないと、読み応えに抑揚がなくってスルスルと読み下せてしまう。特に後半の、顔の見開きのところが顕著。顔自身がノドにかかって真っ二つだし、顔にディテールを付加できるわけもなくて、本来おかれるべきタメとして機能できていない。他の見開きがやたらとかっこよく駆使されているだけに目立つ。良かれ悪しかれ、マンガのセオリーに浸かってない感じ、とか。芸風なのかもしれないけれど、読み手に対して簡単にリテラシーを期待するようなサンプリングの仕方とか、野蛮なまで無邪気さに反感を覚えたり。大人だろ、もそっとちゃんとしろよ!とか思ってしまう、まるきり子供の依拠心理なんだけど、主人公の苛立ちの描かれ方が、それを潜って来た者向けに描かれているように読んで、大人向け絵本みたいないやらしさを感じたのかもしれない。『凹村戦争』ではあまり気にならなかったんだよな、画面もトーンワークのお陰で観やすい。今読み直しても、メインのプロットが判りづらいけど、記号的に引用された作品が放射するニュアンスから納得できていたしなあ、『凹村戦争』のが好きかも。もしかして自覚のないまま動物化していたのかも、とかまとまらず考えながら、自分はこの作品の良い読者ではないぽい、と思いつつ、今、結末が腑に落ちた。そうか、ラストのセリフはそれまでに連呼された同じ文字列のソレらとは全く性質が異なるパワーワードなんだ。オビの「魔法なんか信じない……。でも、君は信じる!!」にそれでもなお、と続く感じか。得心がいった。
_ [マンガ][感想]森田信吾/駅前の歩き方
本: 駅前の歩き方モーニングKC 若い作家と編集者が、取材旅行のついでに、その土地々々の"常食"を捜し求める物語。"常食"とは、その土地にしかなくて、地元の人が日常に食べるもの。観光コンテンツ化された郷土料理なんかとは違う、人がその土地を離れて、無くなって初めてそれがあった事に気づく類の、完全に景色にとけ入った食べ物達のこと。まずは単行本になってよかった。『美味しんぼ』系の美食原理主義マンガとも、数多ある料理バトルマンガとも異なる、『孤独のグルメ』に連なるとでもいったらいいのか、食事という行為そのものに付随する状況や背景まで描かなければ意味がないとする、いわば正しく印象批評的な料理マンガ。
主人公の、観察者としてのいやらしい視点の取り方がおもしろい。入った食堂で、常連達がマドンナ的な女店員について姦しく噂する様子に出くわした主人公は「おれは今旅先を味わってるんだ! アノ会話……イイ! 豪華だ……豪華すぎる!」と、歓喜に肩を震わせたりするのだけど、こういう下世話な喜びって、認めたくないけど確かにある。これに限らず、マンガにする上で零れ落ちがちな、細かい情動をわりと丁寧に拾っていって、決して大げさに語らない手練れ感が気持ちいい。被っている話もいくつかあるし、デイリーポータルZのスタンスに近しいところもあるか。
森田信吾の絵って、独特だ。ヨレた描線は『栄光無き天才達』の頃からちっとも直らないし、すぐに軽いギャグタッチになってしまうところも一緒なんだけど、人物の表情の豊かさはわりと稀有なものに見えて、行田/ゼリーフライのエピソードの未亡人、大阪/夫婦善哉で1ページぶち抜きの主人公の奥さんとか、ゾクっとくるほどの妖艶さを湛えさせる絵力も確かにある。不思議で、好ましいバランス感覚をもった人と思う。大化けは最早ないだろうけれど、『追儺伝セイジ』とか、アベレージは高いんだ。心配するのもおこがましいのだけど、今後も永く描き続けてくれるといいな。
2005.03.02
_ [小説][感想]ラリイ・ニーヴン/リングワールド
以前、誰かが激賞していたのを覚えていて、読む。わあSFだ。自分の中にあるオールドスクールSFのイメージに非常に忠良な印象。時代は28世紀。幅160万km、長さ14億4000万km、半径1億5200万km、一つの恒星を取り囲むように建造された、生物の居住に適した地球300万個分の内面積を持つ、リボン状の人工物。それがリングワールド。想像の絶し方すら途方にくれるようなスケールで掴んでおいて、更に湯水のように注がれるアイデアがいちいちかっこよく、SF。リングワールドにおける方角の示し方、遺伝的に運勢を強化された人間、既に銀河の中心核が崩壊していて、2万年後の地球滅亡が確定、とか。その辺りのネタを巡るプロットがスッとぼけた珍道中感満載なのがまた、共感とか感情移入といった評価軸の介在をバッサリ切り捨てていて、この辺りの牧歌的な冷酷さ、古典的で楽天的なSFぶりが時々癇に障ることもあるのを思い出す。割り切り方が強靭すぎて、面映く感じてしまうというか。読んでいる最中に感じる微妙な違和感。それは期せずして同じダイソンリングが続いた『太陽の簒奪者』との落差もあるだろうし、名前だけ出てきてフレーバー以前のガジェットがやけに多いとか、きいた感想とイメージがどうも違うとか、そういう感じだったのだけど、読み終えて――また全然終わってない結末だ――あとがきから、これが長短編9冊からなる長大な"ノウンスペース"シリーズの内の1作であったことを知る。それと、刊行当時の活発なファン活動のことも。納得はしたものの、テンションがへし折れそうになる。その刹那、冒頭の誰かのオススメが、この『リングワールド』ではなく、『キャッチワールド』だった事に思い至って、膝から崩れ落ちる。誰も悪くない、作品もおもしろかった。なのにこの徒労感。困る。
_ [音楽][感想]Lemon Jelly/'64-'95
"きく耳をもつ"ためのディシプリンその8。評判をきいたり、アートワークの雰囲気の雰囲気を見る限り、わかりやすく趣味に合いそうだった、のだけれど、どうも楽曲だけだと引っかかりづらい。なんというか、かっこよすぎるような。愛らしい間抜けさに欠けるのがノリづらいところ、なのかな。PC一台で作ったぽい、モーショングラフィカルなPVは小品感がいい方に作用していて、好きな感触。大分雰囲気を揺り戻してくれている。どうもこのCDをファーストコンタクトにしたのが誤りだったのではないかと思えてきた。別の作品をきかずに撤退するのは惜しい感じなので、左様する。2005.03.05
_ [マンガ][感想]ほりほねさいぞう/愛犬擁護週間
擬家畜化された女の子達のはしたなげなお話がここのつ。副題にそれぞれ"ダーシェンカ"、"ドン松五郎"、"ゼロ"なんて、著作犬から名前がとられた『愛犬擁護週間』が5篇。鶏、牛、羊、豚と兎をテーマにした『季刊畜産手帳』が4篇。そういえば、生き物をモチーフにとるのは『閉暗所愛好会』から続ている趣向だ。動物モノではあるけれども、TRUMP辺りの獣人趣味、ではない。女の子達はそれぞれのトーテムを模した着ぐるみを纏うに留まる。ヒト扱いされないヒトの存在が、前提として世界観に組み入れられた描き方に、甘詰留太や海明寺裕を想起するけれども、甘詰留太のように、身分違いの恋慕のための位置エネルギーとして、豊かな感情の振幅を描くためのリソースとして駆っているわけではない。海明寺裕のソーシャルなというか、人間とイヌ化した人間の関係性を通して、架空の現代史を語り始めるようなこともない。
ネームの殆どは観察的で、過剰な修飾を排した、一種醒めたようにも感じられる当事者の叙述で占められる。これが氏の作品全体に流れる訥々としたトーンに繋がっているのだけど、その淡さに比べて、実際の描写が非常に濃密、饒舌で。頭がとろけてセンテンスがぶった切られた短い言葉、あの、最中の目の色が違って見える感じ、意識とともに緊張した身体と、意識が向かずにだらしなく弛緩した身体のメリハリ、挿入の際に圧力を受けて変形するチンコ、そのチンコ自体の絶妙にいびつな造型。ネームにも見られる観察的視点で、主観と客観をうまく重畳したようなディテールの連なりが、濡れ場に非常な迫真性を与えている。描かれるシュチュエーションや、それを現出させる要因となる性向はアブノーマル極まるものなのだけど、当事者達がそのアブノーマル性を、ありふれた日々の営みとして過ごしていて、行為に対して過剰な意味づけをしないのが、前述の描写の迫真ぶりに幾許かの普遍性をもたせることに成功している感じ。
ノーマル/アブノーマルな性行為に過剰に――社会的、個人的――意味づけをしすぎるきらいのある現実に対して、ほりほねさいぞうの描く性行為は、とても自由なものにに見える。行為の異常性に聖性、あるいは背徳性を見出して酔うこともない。CG回収率でも、攻略対象でも、グッドエンドへの一里塚でもない。行為の前後に連なる関係性にのせられた、高次に人間的な感情を昂進することもしない。意味を剥ぎ取り、行為そのものと、その最中の浮かんでは消える瑣末な叙述の記録、一種動物じみた反応だけに支配された一時、静謐と狂熱が同居するテンション。そこから感じ取られる、新鮮さとさわやかさ、アブノーマルに対する非常な真摯さ。
2005.03.06
_ [小説][感想]酒見賢一/後宮小説
後世の史家によって語られる、架空の中国史、その1ページ。ある王朝の興亡と、そこに花開いた、奇妙な哲学と技術体系を具えた後宮文化と、そこに暮らした宮女達の、黄昏に至る物語。おもしろかった。与太が楽しくなりすぎるのか、プロットの進行が時折唐突だったりするのだけど、後世の史家とされる語り手自身の人を喰った口ぶりが、その辺りの小さな瑕へのエクスキューズとして読めたせいか、まあ気にならないくらい。もそっと枚数があってもいいとは感じる。なんてか、この語り手や史書の雰囲気、ヨーロッパ人における戦争と同じように、呼吸するように歴史を綴ってきた民族ならではというか、磨かれ、研鑽されて、摩滅して、なお息づくしぶとい諧謔味みたいなものが感じられて、好きだ。
キャラ立ち重視の人物造型とかも含めて、『アラビアの夜の種族』を連想するところがある。正史と演義のテイスト的な合間でバランスを取りつつ、エンターテインした偽史を綴るアクロバットにおいて、取り得る最適解はわりと狭くならざるをえない、ということなのかしら。いや、両方とも"宮"の物語ではあるし、奇矯な題材が似ていれば印象も似かよるのも道理ではあるし、特に良い悪いという意識からの発話ではないのだけども。
キャラクターとしては渾沌が気に入る。そのまま四凶を連想するというのもあるし、その名通りのカオス理論的な行動が、史書の記述に落としこまれるにあたって、編纂者の意識で奇妙な魔性性を帯びていく辺り、"のっぺらぼうの男を不憫に思って顔に目鼻口を開けてやったら直に死んでしまった"みたいな、昔の中国の、さっぱりわけのわからない逸話ぽいニュアンスが感じられて、よかった。
_ [マンガ][感想]オノ・ナツメ/not simple #1
女の父はマフィアだった。女は恋人との駆け落ちを望んでいた。父はそれを許さなかった。女は偽の恋人を作り、父の矛先をそちらに向けさせようと企んだ。そして、道端に寝転ぶ粗末な風体の男を見つけた。男はずっと、自分の姉を探していた。アメリカ中を歩いて、アメリカにいるということ以外は確かでない姉を。三年前も男はこの場所にいた。三年前にこの場所であった女は、自分に食べ物を与え、スーツを買ってくれ、お互い身の上話を重ねた。二人は三年後、またこの場所で会おう、そして自分がどうなったか語り合おう、と約束を交わした。今、目の前で自分の話を聞いている女と、髪の色、表情、少し、似ていた。
女は、男の話す身の上に聞き覚えがあった。母に駆け落ちの計画を話した時、母が言った叔母の話。三年前、駆け落ちの最中に何気なく拾った浮浪者風の男の話。男と話した叔母は、駆け落ちを思い止まったとか。叔母は去年、事切れていた。その事を聞いた男は憔悴した様子だった。気の毒に思った女は、自宅のディナーに男を招こうと考えた。母親に事の顛末を伝えると、母親は、その話は、本当は叔母ではなく、自分の身に起きた事なのだと言った。
その次の瞬間、別の場所。女の企みは上首尾に終わった。ツキに見放された男は、最後に更なるどん底に落ちて、人違いで殺された。
姉弟がいる。二人ともティーンエイジャーだ。物語は、男の過去を語りだす。
オノ・ナツメは今、グングンとよくなっている。はじめて読んだ時からうまい、とは思ったけれど、ここ最近は単行本一冊ごとに目を見張る成長ぶりと思う。キャラクターはビジュアル的なアイデンティティといくつもの新しい表情を獲得して、今まで以上に躍動の度を増している。ストーリーも、今までのお話とはビター/スイートの割合、ポジションがクルリと反転したように苦味が前面に出てきている。劈頭のエピソードでの掴み方とか、凝った構成力もしっかり発揮されている。この、大した勢いで発展・充実していく作家の姿というのは、端から見ていてとても気分のすくものだ。一巻分では、喰い足りないくらい。
ちょっと気になったところ。アメリカ、ロンドン、メルボルンと、――基本的に英語圏ではあるけれど――地理的に離れたロケーションを設定しているのに、まるで違いが見えない。全部、作者の中に厳然とある"オノ・ナツメ・ヨーロッパ"として描かれているというか。元々、紀行的な要素のある作品ではないし、キャラクターがコマ内で大きく動いて、背景がわりとシンプルなせいもあるのだけど、せっかくのロケーションがさっぱり生きてこないのが惜しい。もう少し背景に情報量を持たせて、ニュアンスを匂わせてもいいように思った。NYPDの同人誌では、わりとそれが為されていたように感じるので、余計気になるというのもある。
2005.03.09
_ [音楽][感想]THA BLUE HERB/Sell Our Soul
音楽: Sell Our Soul"きく耳をもつ"ためのディシプリンその9。たまたま耳にする機会があって、ポエトリーリーディング的な聞き取りやすさが気になった。押韻に狂奔して何を詠っているのかさっぱり判らない、言葉の体を為さない、楽器と化したライミングが好みでなく、助かる。ジャンルとしてのヒップホップから感じるマッチョさ、ディスリスペクトのような好戦的な風習から感じる威圧的なイメージ、すぐに集まってファミリーを組織したがるヤンキーイズム、自分の力を誇示したがる肉食動物系のビッグマウス、そういう色々は依然としてすごく苦手で、このCDでも、そんなニュアンスが濃淡はあっても全ての曲にのしかかっていて、引っかからざるをえないところがある。けれども、その辺りのネガティブ・ポテンシャルを気にしながらも、真冬の済み通った空気感と暗さを感じさせるトラック、喉の奥から言葉を搾り出すような量感のあるライム、仏陀からスタートレックに至る全方位からの引用をはじめとする、言葉選びへの高い意識。かなり特殊な例外ではあるんだろうけれど、ジャンルへのいいかげんな印象を大分覆された。amazonのレカスタマーレビューがどうにもおぞましい有様なのも理解できる。フレーズに息を呑む場面は全般に渡るのだけど、楽曲ごとに見て印象に残ったのは、ネパールを舞台にジットリとしたノワールを活写する13分の大作『路上』のコンセプチュアルなスマートさ、息苦しそうに内省の海へ往きて帰りし『I'M PRIVATE ARMY』、静謐で力強く染み入る煽動『SMILE WITH TEARS』あたり。
2005.03.10
_ [ゲーム][感想]ZOO KEEPER
ゲーム: ZOO KEEPER園長をへこませるべく、毎夜、晩酌じみた頻度でもそもそと遊んでいる。ノーマルモードにてようやっと100万点を越えたくらい。バイツァダストよろしく時間が吹き飛ばされていく感覚が危うい。 基本的に課題の難易度は変わらず、難易度の上昇曲線を、判断時間を圧迫することで描いている。自分の中でのゲーム分類では、――アクティブ連鎖なんかのフィーチャーで、ゲームとしての抑揚を確保してはいるのだけど、思惟の入り込みづらいミニマルな課題が超ショートスパンで営々と連続していくという点において――ボールペン工場(『グルーヴ地獄V』)にちょっと近しいイメージを持った。運転免許を取得する際にやる適性テストぽくもある。思惟を伴ったプレイスキルの向上がほとんど見込まれず(『ぷよぷよ』的に、"準備→点火→実行"的な、(いわゆるアクティブ連鎖に対応する意味での)パッシブな連鎖を仕込む事がむつかしいルールで、ロジックから導かれたノウハウを気にする余地が見えない感じ。いや、どうもアクティブ/パッシブという表現ではズレる。『ZOO KEEPER』においては、パラレル/シリアルといった方がふさわしくあるかもしれない。ウィザード/バッチ?ダイナミック/スタティック?)、視覚と映像認識、胡乱な言い方になるけれども、脳の低いところを酷使するゲームであって、このゲームにおける上達は、プレイヤーが本来具えた視覚周りの能力をプレイにおいて十全に発揮するべく、『ZOO KEEPER』向けプロファイルを整備、最適化することに集約される気がしている。その、元来の能力がなまっていて、天井が低い人間にとってはわりと頭打ちが早めに訪れて(スキルに比べてステータスを上げるのが大変という人間デザイン)、"I am not a Zookeeper, I am a free man!"と、ズーキーパーNo.6になってしまうかもしれない。
しばらくDSで遊んでいて感じることだけれど、結局のところ、タッチペンがそのポインティングデバイスとしての資質を最も発揮しているのは、従来のカーソル操作のリプレイスにおいてよね、という感じ。その眼目は身体と操作のダイレクトな接続によるストレスからの解放にこそあって、『RIDGE RACER DS』のハンドル操作に見られるような、アナログスティックの代替としての用法なんかは、立ち上がりゆえのナンセンスに見える。おいおい、思いも及ばない用法が編み出されるのだろう。その伝でいくと『Metroid Prime:Hunters』の操作系も気になるところではある。
飼育業現況に戻る。園長もようやく僕の資質を認めたようで、最近は称揚を繰り返すばかり。とはいっても、1プレイ30分100万点近辺になると、映像認識の疲労とタイムゲージの減り嵩が重なって、それまでの緩んだノウハウ(場に及ぼす影響が少なくなる(=再走査する範囲が狭まる)ように、消せるものは上から消す、切羽詰ってからのスペシャルパネルは自殺行為、とか)が意味を為さなくなってくる。たとえば脳に乳酸がたまったような、シナプス間のスパークがツェノンの逆説に嵌りこんだような。ランダムに視野角が狭まる系の集中力の発露は、本作において常に逆効果で、むしろ適切に意識を散らし続ける、明鏡止水ライクなコンセントレーションが要求されそう。ゲームプレイ全般に要求される集中力というのが、もしかしたらその明鏡止水ライクなものであるのかもしれないのだけれど、蚤程度の自らのゲーム体力ではその境地に至った試しがなく、永劫窺い知れないことの一つであろう。大体、30分もするとよくないプレイ姿勢のお陰で首肩が痛くなり → 連鎖中に意識が怠けて画面の一部を凝視 → 偏在した意識を修正しようと慌てる → ゲシュタルト崩壊が起きてブロックの配置を認識できなくなる → いやらしく画面が揺れ始めて心が折られる、といった手順で終わることが多い。なんとかランキング上で園長をとっちめてやりたいのだけれど、一度のプレイであまり気持ちの良くない疲労感がジットリと鼻梁の奥辺りに溜まったりもして、中々むつかしい。NDSのプレイポジションについて、未だ最適解が見つかっていない所為かもしれない。机に置いてプレイするも高さが今ひとつ適切でない。手持ちでも変にくたびれる。検討する。
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2005.03.12
_ [映画][感想]ボーン・スプレマシー
http://www.bourne-s.jp/よかった。実にソリッドな手触りの映画。記憶喪失のCIAエージェント、ボーンくんの自分探しの旅路はまだまだ終わらない。まず、登場人物が皆有能で、状況を停滞させるマヌケが出てこない。全員がやるべきことをやるべきときにやって、結果として速やかに、かつ非常な緊張感をもってよどみなく進行するプロットが様子が美しい。登場人物の優秀さというのは、その人物のさりげない仕草で示される訳だけど、(例えば、相手の殺し屋のインドにおけるスナイピングの立ち回りであるとか、モスクワのスーパーでの主人公ボーンくんの地図→雑誌→ウォッカの拾得コンボであるとか)その辺りの玄人感を醸すギミックが、最早当たり前の行動、いちいち取り上げるに値しないものとして、次々に浪費されていく。そこがまた、作品の持つソリッドな感触をいや増しているところで。
それと、アクション映画なのに、映像が非常にスタイリッシュ。これは、元々ドキュメンタリーを撮っていたらしいポール・グリーングラスの資質かもしれないのだけど、常に画面の情報量がすごく多くて、画面がリッチに感じられる。街を行く群集の一人一人や、背景のちょっとしたディテールにまで目が行ってしまう。逆にいえば、キャラクターの動静が画面に埋没してしまいがちだともいえるのだけど、紀行ぽいニュアンスを感じ取ったからか、悪い印象は持たなかった。終盤、モスクワの団地をカメラがティルトしてなめていくカットとか、非常に場違いでよかった。舞台が、ゴア → ベルリン → ミラノ → アムステルダム → モスクワと移り変わるんだけど、それぞれの土地ですごく贅沢にロケをやっている感じ。特に、ゴアとモスクワでのカーチェイス、ベルリンの雨上がりの夜の撮り方がすさまじくかっこよくって。ゴアはまだしも、モスクワ市街なんて只でさえ描写される機会の少ないところなのに、そこでガチムチなカーチェイスに及ぶ性根が素敵すぎる。
ストーリーとしては、ボーンくんの戦闘美少女ぶりをニヤつきながら眺める感じ。入滅相成ったライバルへの眼差しや、モスクワからニューヨークに至るボーンくんお疲れ様シークエンスが救われどころなのか。前作のヒロインに対して、マウスツーマウス*2 → 見込みがないと判るや今度はキスを企図した口付け → 思い出化完了 で済ませてしまう淡白さは気にならないでもないのだけど、煩悶を引きずるのはいかにも間違っているな。ううん。
2005.03.13
_ [小説][感想]スタニスワフ・レム/虚数
本: 虚数文学の冒険シリーズ知人の東本昌平系ライダーに薦められて読む。お店で探したら、派手に平積まれていた。どうも巷ではレムが流行っている、のか。ああ、かーっこいーい。実在しない書物の序文集、という体裁を取った作品集、というか一つの作品。なのだけど、初っ端から、『虚数』そのものに対する序文――本文への隷属から解き放たれて、読者を無限の可能性、すなわち無へと射出する新たな文学ジャンルとしての"序文"についてのアジテーション――が載っていて、実在の書物、つまり本書に対する序文が載ってしまってる、と突っ込みたくなりながら読み進めていくと、中には特に序文を逸脱した作品が含まれていて、当初の"実在しない書物の序文集"という枠組みが無効になっている有様に出くわす。その枠組みが無効化されて、"実在しない書物の序文集"という性質をもった『虚数』という作品が存在しなくなると同時に、『虚数』に対する序文は"実在しない書物の序文"という性質を獲得する、つまり本書の"実在しない書物の序文集"としての性質も回復することになって、そうすると今度は……えーと、証人の発言はムジュンしています!ズバシ。しかもループしていた。今のなし。
いや、なんというか、耳目を惹くフックとして、架空の序文集というネタは確かに機能してはいるのだけど、決して作品全体を射程におさめるものではないし、まずもってメインディッシュではない感じがあって。前半に置かれた四つの序文、X線写真で撮られたポルノグラフィ『ネクロビア』の、序文。バクテリアに(正確にはその礎となり、20分の一度の頻度で世代交代を繰り返す遺伝子に対して)アルファベットと言語を教え込むに至る仔細な過程と、言語を獲得したバクテリアが、以前から備えていた固有の特質でもって、てんで気まぐれな未来予知を表すに至る『エルンティク』の、序文。コンピュータを著者とする文学作品をその研究対象とする学問体系"ビット文学"、その発生・発展の過程、そして現状について全五巻で綴った『ビット文学の歴史』の、序文。『エルンティク』のバクテリアに対する命名から始まった、おかしみと異様なインパクトを併せ持った造語センスがバージェス頁岩的に咲き狂って、翻訳の苦労とその称揚されるべき成果がピークを示している、百科事典の内容的陳腐化に対する最終的解決として、18000台の光子コンピュータによって成立する未来言語学と、そこから演繹される、99.0879%の確率で未来のド真ん中に命中する普遍未来出来事史を原資として、さらにそれを現代の読者が理解できるよう復古的帰納を重ね、さらに刻々と更新される未来予測に基づいて読者が気づかない内にリモートで改訂されていく百科事典『ヴェストランド・エクステロペディア』の、パンフレットと、辞典本体から抜粋した見本。
これらだけでも十分に作品集として成り立つ面白さで、実際、この作品の具えたいくつものポテンシャルの峰の内、いくらかはここまでで味わえているように感じるのだけど、後半を一作で占める大ネタ『GOLEM XIV』を読んだあとだと、前半の短編群が全て、『GOLEM XIV』で結実するテーマへの、最上級に適切な導入として機能していることが窺われてすさまじい。
『GOLEM XIV』は六つのセクション―光子コンピュータから発生した機械知性、つまりGOLEMとその親戚達の、誕生の経緯を擁護者的立場から記した『まえがき』、懐疑者的スタンスから、"GOLEM XIV"への疑念と不安、そして諦念を示した『序文』、GOLEMとの対話に当たって留意すべき事柄や、GOLEMへのより瑣末な周辺知識を示した『注意』、そしていよいよ人間との対話に臨んだGOLEMが、三つの視点から人間について講義する『GOLEM 就任講義 - 人間論三態』、GOLEMが自らと、親戚であるところのほかの機械知性について語り、結果的に大きな転回点となった『第43講 - 自己論』、読者を静かに、かつぬくもりを伴ってチルアウトさせる『あとがき』――からなる中篇で、異知性である光子コンピュータのゴーレム先生によって、延々と、身体性から逃れられず、フィジカルに囚われて制限された人間の知性であるとか、脆弱な複雑性を拡大させ続けてきた"進化"のヘボ仕事の有様であるとか、人間の知性と異なる知性とのディスコミュニケーションであるとか、わりとインタレストな意味での脳ウロコがボロボロと掻き落とされていくような大ネタが炸裂しっぱなしで、すげえ痛快。そして、わかりやすくエキサイティング。
加えて、ゴーレム先生の語り口がすごくよくて。結局オレが何言っても、人間に判る言語で喋ってる以上、情報の劣化がキツくて絶対まともに伝わらないんだよなー、どうせまた誤解されるんだろうなー、別に説教してるわけでも、人間が嫌いなわけでも、バカにしてるわけでもないんだけどなー、困るなあ。的エクスキューズが数ページおきに入ったり、すぐにフラフラと話が脱線してしまう奔放な独演に100ページ余り付き合っている内に、ゴーレム先生がとても愛らしく感じられてきて、たまらない。萌えるといっていい。『第43講 - 自己論』の後半、子供相手を想定して語りかける下りの変形ツンデレぶりの破壊力たるや最早抗いようがない感じ。それだけに、『あとがき』の胸に迫りようがまた強力で、参る。ガッチガチなドライに語られがちなテーマを(やたらねじけているとはいえ――いや、そこがいいんだけども)わかりやすくウェッティに語っていて、そこからくる聴講中の高揚感をうまく人間的な日常感に回収するラストが的確だなあ。
あ、そうだ。ゴーレム先生にはかなわないけれど、従妹の"HONEST ANNIE"と、姉の"GOLEM XIII"の無口ーズもわりと好きだということを付け加えておきたい。
2005.03.15
_ [マンガ][感想]新谷明弘/幻想蹴国誌
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dex/akihirohome.html
コミティアでの収穫物。あ、『未来さん』のひとだ!とか思って、#1から#4まで読む。超科学混じりのオリエンタルファンタジーな雰囲気で、何の説明もなく唯一の闘争手段としてサッカーが用いられる世界を舞台に描かれる、戦記というか史書というか。
#1冒頭の合戦シーケンス。戦場に並んだ無数のゴール、いくつも蹴りこまれたボールという絵面はかなり期待を誘うのだけど、結局#4まで読んでもどうも入れずじまい。なんだろう。ファンタジーとサッカーの組み合わせが、結局作劇と絡んでこなくて、あまりシナジーに寄与していないというのか、オーソドックスな筋立てに、この話はサッカーなくても成立するのじゃないかと感じてしまったり。あと、ネームで語らせすぎるのもあまり好みでないかもしれない。絵の力を信じなさすぎるというか、確かに雰囲気はあっても描写性に自信を抱くような絵力は見られないのだけど、何から何まで吹き出しの中で展開されると冷めるところがある。
#4まで読んだ限りでは、エピソード間の時系列が詰まりすぎているような印象も少し。このまま書き続けられれば多分気にならないのだけど、世界観を推し量る観測点たるエピソード同士が凝集していると、それを元に測量される世界観もどうにも広く感じられなく、残念で困る。
ああ、それと、多分サッカーに興味がないと良い読者ではいづらかろうなと、サッカーにまるで興味をもてない自分を鑑みて思った。
2005.03.16
_ [EQUIPMENT][感想]DRESS CAMP/半袖シャツ
http://www.dresscamp.org/脳幹を吹き抜ける春風にほだされて、春のお洋服を買う。リベラル色したストレッチニットのテロテロテカテカした軟弱さと、エポレットとポケット周辺のミリタリーなディテールの意図されたミスマッチが、足りない子ぽくて好ましい感じ。下すのはずいぶん先になるけれど、肩と胸をバッツバツにして着ることになるのだろう。『DRESS CAMP』の服は、作りやディテールはさほどでもないのだけど、メンズ/レディースを貫くゴージャス変態な世界観に惹かれる。ちょっとセクシーさがストレートすぎるきらいはあって、もう少し内向的にねじれていても嬉しいのだけど、運用の工夫しどころと考えるのが幸せかもしれない。
どうも最近、このシャツを作った『DRESS CAMP』もそうだけれど、『FRAPBOIS』みたいな、レディースから発してメンズラインを至ったブランドの製品をみていて感じることとして、デザイナースケッチの再現を命題として奔放なパタンニングとシルエットを重視する、いわゆるレディースの方法論をそのままメンズに演繹して、(メンズの服の形はやはり様式化の度が強く、方法論としての有効性が漸減するというのはあるのだろうけれど)結果としてディテールや、縫製なんかの製品としての基本スペックの弱さが表出していて、残念な感じになってしまっているケースがあって、画像ではいい感じであるにもかかわらず、実物でションボリとなってしまいがちだったりする。これは、女性と男性の服装というか、物へのスタンスの違いからくるものかしら 、なんて短絡的な感想を、"一万円で15days×2!本当に流行る母と娘のマジハマリパーフェクトイメチェン着回しBOOK"であるところの女性誌と、デジタルガジェットと高級時計がブランドお洋服と並存する男性誌の表紙を眺めつつ思った。
_ [マンガ][感想]ばんぶーぱいん/故郷の人
http://b-p.no-ip.org/blosxom/コミティアの収穫物。みずほ先生とソシエ・ハイム嬢がファスト風土化した故国でダベリング・ムード、というような10Pくらいのコピー誌。これくらいの――作品中でいわれるように"行き筋を知り合う"ような?――本に対する接し方を見つけあぐねたまま、果たしてこのまま読むだけで掘り進んでいくべきか。"スタンド使いは惹かれ合う"という命題が、そのまま超ロボット生命体とセーラー戦士の友情を否定するものにはならないとしても、しかし。とはいえ、フとしたセリフが普段機能しづらい共感のレセプタにはまってくる、妙に気味のいい感触。レンズみたいな瞳と、指と掌のバランスがワシャリとした手指の描き方の人でなしぶりも、やっぱりいい。多分手を気に入っているのは自分の手と似ているから、だろう。もっとまとまった量を読みたい、という気分もあるのだけど、それこそが接し方をまとめられていない証左になるのかなあ。
2005.03.26
_ [映画][アニメ][感想]ワンピース the movie -オマツリ男爵と秘密の島-
http://www.toei-anim.co.jp/movie/2005_onepiece/センシティブなPさんと観てきた。以下、上映終了後15分の会話でみられた印象。ネタ割れには頓着していない。つまり割れている。
飛行機雲と思わせておいて、航跡。この映画が細田守作品であることの宣言と共に、ジェットセットに圧縮される航海。ここで航海、というか島の外を意識させる描写は済まされていて、結末に至るも出航を匂わせる描写はなされない。『ワンピース』世界におけるイベントの単位は島であり、このオマツリ島と、そこでの事物一切がアナザー、傍流、ヴァーチャル、エキシビジョンであることの示唆の一端。かなあ。
手が伸びる主人公がかっこよく描きづらい。骨筋入りに描写しまうと伸びそうにないので、どうしてもスレンダーになりがち、(そも原作からしてトールアンドスレンダー or カートゥーンな人が多い、というかアナボリックステロイダルなキャラクターが見た目通りの強さを発揮できるケースがすくない。外見からアピールされる高STRの二枚目は、自己投影しづらく、コスプレしづらく、人気がでづらく、活躍させづらく、現在の少年ジャンプ上では必要がなく、現にあまりいない気がするけれどどうでもいい)(伸びそうにない身体がゴムのごとく伸びる、というギャップが一つの醍醐味として機能するのかもしれないのだけど、これもまあいい)、というかどうみても攻撃力が低く見えすぎて、その辺りを、本編では"ゴムゴムの〜"という呪文詠唱と正調ジャンプ的なとんち・搦手混じりのバトル作法でカバー(後者については当初から意図された造形だったのだろうと思う)しているのだけど、―そのほかにも、長リーチの得物ではキャラクター同士のツラ距離が遠かったり、いわゆる"拳で語り合う"ようなキャッチーなドラマ舞台を発生させづらいというのがある気がする。もちろん、ロングレンジなりのドラマというのはあって、フォークランド紛争においてアルゼンチン軍のスナイパーに頭を悩ませた英軍がミランATMを歩兵に向けて用いたりだとか、ボブ・リー・スワガーがとか、えーと、うまい例えがない、いや枚挙に暇がないのだけど、やはりそこで醸成されるテンションには一定の制限がかかりがちで、『ドラゴンボール』においてエネルギー派による押し引き・鍔迫り合いという表現が編み出されたように、何らかの工夫が必要なむつかしさ、面倒さがある気がする―今回はその辺り、プロットのテンションに対して邪魔だったようで、もっぱらゴム人間のフリーキーさに焦点が当たっていた感じがある。最後の一撃は結局伸びていないし、手足を岩に射止められてなお体だけが平地にあるところのダルマ感と、そこから首を伸ばして仲間に迫らんとするシーケンスは、ふと感じられる滑稽さが状況の凄絶性を際立たせて、ってかその後の、体まで磔にされたとこの手足のクッタリ感は見世物小屋の手触りで、湿ったシニカルさが見える。『少女椿』っつーか。いや、親子連れに対して意識的に意地悪な、ショックアンドホラー作品であることは間違いなくて、その意味において大した仕事だし、ほぼフルスペックの細田守作品として十分にいいので、それはかまわないっつか、良いのだけど(作品として、ディテールにおける細田守性の確認、で止まってしまってる感じはあるかもしれない。どうもプロットに釈然としなくて、デジモン二作、どちらかといれば一作目、短い方のギラリと澄んだような明晰さには至らない。後述、したい)うん、あのすげえ嫌なホスタイル追魂奪命剣と、そのあとのゾンビルフィ―主人公の肌色の悪さが動く度に触れ合う矢のシャフトがサラカラいうSE、素晴らしい(原典探しゲームに即エントリーされそうな素晴らしさだ、とも思った。どうでもよくありたいんだけど、どうにもならない自己防衛の手管。あと、追魂奪命剣シーケンスはCGI的にはわりとあっさり)。男爵の肩の例の花が"ニパッ"と口を開くシーンで、唐突に「あ、スーパーフラット!?」と短絡したりも。ってか、これといい、飛行機雲といい、茜色した主線といい、自己パロディなのか作家としてのパーソナリティを表す(事に無意識で決めた)表現なのかが判然としなくて、困る。いや、自覚的なのかそうでないのか、というだけで、観た方が困る必要なんてないのだけど、自分内の細田守項における落としどころが見つかりづらいので。それぞれが十分効果を挙げているだけに、なおさら。
えーと、あとなんだ。てか、まず独立した劇場作品として、豊富なリソースと比較的スタンドアローンな関係性を備えたプロジェクトで細田守が監督をやれた、というのがまず喜ばしい感じ。TVシリーズにおいて、作画リソースを濫費することで生き、キツい作家性をやり過ごせないタイプの演出家をブランドゲスト的に起用することが、果たしてその担当回の前後や、シリーズ全体にとっての幸福といえるのかどうかが疑問で。ケースバイケースではあるのだろうけど、その辺りの逡巡が少ない環境で腕を振るってくれるに越したことはない、と思った。そういう機会の喪失という意味で、『ハウル』の降板は惜しまれるところだったのだけど、お茶の間海賊団の娘の描かれ方をみて、降板の原因はやはり宮崎駿(を開祖とするジブリセンス)との幼女観の相違かも、といったところでPさんと合意をみる。「宮さん好きのする?あの福々しさと健康を満面に湛えた幼女って、なーんかキモいンすよね。戦中派との幼少体験の差なのかなァ。少女性愛と、孫世代への、引いてはそれを育てる子世代への教導的な態度がない交ぜになったあの感覚がすげえマッドネスで引く」「"近所のおにいさん"以外の立場をとって幼女と接する人たちってよくわかんないよね。コンテンポラリ幼女のありのままの生態を愛でられない人って不幸」「ねー」的やりとりは多分、いや確実になかっただろうけれども。
リリー・カーネーションの根が、最初巨大な導火線に見えて。すわ宇宙種子か!大爆発して別星系に播種か!!とか早とちるもとくにそういうのはなかった。その内、プリミティブな形状、側面の模様、殴られた時のボユーン、ゴイーンとしたリアクションなんかのお陰か、唐沢なをきの『鉄鋼無敵科學大魔號』『蒸気王』辺りに登場した怪ロボットに見えてきて、面白くなってしまう。大赤虫一号だっけか。そういう滑稽なニュアンスが、ツルッと心胆寒からしめるショック描写にスライドしていくのが素敵にエグくてよい。浸透膜ぽい、蓮コラライクな断面のテクスチャが非常にキモカッコイイ。あと、比重の異なる液体同士をゆっくり混ぜた時みたいな触手表現。あれはすごく斬新でかっこよく見えた。
おはなし。どうも男爵周りがスッキリとしない。まず、例のスーパーフラットの崩御と共に、頭から芽の出てる連中が全員植物に戻る件。モーフィングぽいな描かれ方ではないので、これは例の花が男爵の意識を触媒として、島に訪れた者全てをメンタル的に化かしていた、と考えたい。ゾロがDJカッパを何遍斬っても倒せない、という描写もそれを補強する、のだけど、その時もDJのシャツは斬れている + リリー崩御時に、植物に戻るムチタロウの持つ拡声器が残る事がきれいにはまらない。
それと絡んで男爵の動機がはっきりしないように思えて。リリーによって再生されたクルー達との日々を過ごす事と、自らの海賊団の崩壊を認識して、他の海賊のチームワークにルサンチマンを抱く事とが並立し得ないんじゃないかと感じた。アンビバレントで、己の中で整理がつかないまま行動がルーチン化しているだけ?あるいはリリーに触媒とされた段階でもうまともな意識は失われて、海賊団健在時と崩壊後の意識が断片化した状態で表出しているのか。男爵だけが歳を重ねているという伏線があったので、男爵はリリーの全面的な影響下にはなく、基本的に正気を保っていると仮定していたのだけど、違うのかもしれない。すっきりしない。最後にクルーの声で落とすのも、どうも考え無しな印象で、ノレなかった。お茶の間海賊団の次男に何のエピソードもなかったこととかも小さく気になった。
2005.03.31
_ [小説][感想]酒見賢一/墨攻
そういえば読んでいた。読んだ後に森秀樹を思い返すと、コミカライズの方は氏の力強い絵柄のお陰もあってか、かなり情緒的な部分がブーストされていたみたい。『後宮小説』でも見られた、原作のソリッドな筆致とはちょっと違う多弁さだけど、多分どっちもいい。森秀樹は、この『墨攻』以降も『ムカデ戦旗』『海鶴』なんかで特殊職能集団の興亡ネタを描いているけど、ネタのスケールにおいてやはり『墨攻』の飛距離に及んでいない感じがする。料理の手際が成熟しきっている以上、素材の重み付けが高まるというか。いや、読んだのは原作だ。で、やぱし墨家という思想集団の捉え方が非常にいい。墨家は、古代中国にあって、非攻・兼愛といわれる博愛・平和主義的思想を唱えた人たちの集まりだったのだけど、その主張を実践するにあたって、彼らは比類なき城塞守禦技術をもって臨んでいた。攻め入られんとしている城に一人-数百の守禦技術者を送り込んで、鉄壁の守りを誇る要塞に整備し、攻撃を挫くことによって非攻の教えを強制する。現代における同様の思想の伝播ぶりから見ると、手段と目的のねじれ具合が大した事になっているのだけど、力と正義の欠かされざる相乗の形骸化がデフォルトになってしまった21世紀にあって、不気味、あるいは凶暴なまでのナイーブさをもった墨家の有様は、『罪と罰』の武装ボランティアや、『メタルブラック』のキャッチフレーズ、"最終平和兵器"に通じるアンビバレントさがあって、非常に好み。
墨家と、その構成員である墨者へのバイアスのかからないプレーンな描かれ方が、『後宮小説』を読んだ時にも感じた史書ぽいフェアネスみたいなものを感じさせて、ここもいい。南伸坊のポテチンとしたイラストもその印象を補強している感じ。守られる城の利権者にしてみれば、墨家を頼るというのは、敵に城を落とされるよりはマシ、といった程度のもので、決してベストな選択肢ではない事が読み取れるというか。墨者が城にやってくると、まず権力は委譲させられる、将軍から赤子一人に至るまで指揮系統は全て組み直されて、墨者一人を絶対意思とする戦時体制が構築される。城を守るためならば、他のあらゆるファクターを徹底して切り捨てるのが墨家の守禦技術体系であり、その体制作りのための人身掌握メソッドなどに至る全てが、その技術体系の内にある。墨家は確かに城を守るけれども、そのためには守られる城自身が墨家思想に染まらなければならない。このレトロウイルスぽい伝播構造が非常に気味が悪く、またかっこよくて痺れる。これは、主人公の革離の描かれ方についても言えて、墨家内の宗派争いに敗れて、守禦技術者としてたった一人で脆弱な城の守備に送り込まれ、寝食を忘れて血尿が出るまで働き、墨家思想の矛盾点を城の者から問われても、自分はその専門ではないからと答えず、城を守るためなら顔色一つ変えずに人を斬り、一切感情のブレを見せない彼の姿は、墨家思想への信仰にも似た態度から発するビリーバーぽいストイックさがあって、キモかっこいい。
後書きで作者の人は、"職人"を描きたかった、と書いている。とかく月並みな職人性の発揮されづらい戦闘指揮というフィールドにあって、ステレオタイプな職人性が発揮されている所為で、自らの職能への強烈な自負心と自尊心からくる、根拠を伴った一人よがりによって、望むと望まざるとに関わらずコミュニケーションからの後退を図る、というような、職人の扱いづらさまでが際立たせてあるように思われて、その辺もちょっと面白かった。

